2007年9月30日日曜日

Nigel James Mansell (F1)

1989年にF1-フェラーリのハンドルを握った時、あの赤い跳ね馬を巧みに扱ったマンセル(通称:暴れん坊)は、全盛期一歩手前だった。エンツォ・フェラーリ(フェラーリ社の創設者-89年に90歳で死去)から直々のオファーを受けた最後のドライバーと言われる。
マンセルは、イギリスの労働階級の家庭に生まれ、誰からも愛されるユニークさと、レース後でさえもクラッチやギヤの歯などが殆ど消耗がなかったとされる運転技術を兼ね添えるセナ登場前までの天才ドライバーだ。彼のユニークさの例としては、84年のF1-アメリカGPでは自身初のポールポジションからの決勝レースで、チェッカー目前で壁にタイヤを当ててミッションを壊してしまう。その後、自らマシンを押してチェッカーを目指すも途中で力尽き気絶してコース上に倒れてしまった。誠にユニークだ。
では、彼の卓越したドライバー技術の例としては、86年のホンダエンジン(ウィリアムズホンダ)で臨んだ最終戦オーストラリア。ランキングトップで臨んだ決勝レース。優勝しなくとも、入賞さえすれば年間総合優勝のレースにおいて左リアタイヤのバーストによりリタイア。この際、287km/hでの走行中のバーストにもかかわらず、クラッシュすることなくマシンを停止させている。並みのテクニックではない。結果、年間チャンピョンを逃す事となり、その頃から、暴れん坊マンセルは、ファンから愛される存在となる。
あのセナとは因縁の関係にあった。その因縁は、上記84年アメリカGP参戦時のチームロータスがマンセルを解雇した時から始まる。契約更新されなかった理由が、新鋭アイルトンセナのロータス加入であり、それによりマンセルは押し出される形となった。
マンセルは、1992年に彼自信にとって初の年間総合チャンピョンの名誉を勝ち取る。チームは、当時、最強のウィリアムズルノー。アクティブサスペンションを採用したマシンは安定し、開幕から5戦連続優勝を引提げ、チーム&ドライバーともに絶好調で迎えた第6戦-モナコGP。マンセルのF1キャリアの中で勝てなかったコース。しかし、92年だけは勝てると誰もが信じ、彼自身もラスト8周までは、そう信じていたはず・・・
ラスト8周で、マンセルの前に出てきたドライバーが因縁のアイルトンセナ。絶対に勝ちたいマンセルと、モナコマイスターの称号を持つセナ(通算モナコ6勝-歴代最多)との意地の戦いが始まった。マシンはテクニカルコースを200km/h以上で操られ、彼ら2台のマシンはその距離30cmまで迫る、抜きたいマンセル、阻止するセナ。この手に汗握るレースは、モナコGPの歴史にマンセルの名を刻み、ファンを魅了した。これぞ、暴れん坊-マンセルの真髄を見た。
結局、モナコの女神は、マンセルには微笑むことはなかった。レースを終え、マシンを降り、表彰式に向かう彼は、一人では立てないほど疲労困憊していた。激走しながら、ヘルメットの中で、吐いたとの逸話も残っている。モナコでは勝てなかったが、マンセルの魂は偉大であり、My Best of Legendsに認定しても過大すぎることはない。
では、92年-F1第6戦モナコGPのラスト7周をご覧下さい。これ以上のデットヒートは見たことない!実は、92年を最後に、ホンダは第二期F1から撤退する事となる。あの時、「F1では、すべての目標を達成した!」と撤退コメントの中で述べたが、下記フィルムは、ルノーエンジンとホンダエンジンの差が明確であり、ホンダは、このモナコで悟ったと僕は思っている。 運とセナのドライビングテクだけでレースに勝ったことが、V12-エンジンの実力無さを痛感し、それを受け止め去ったホンダも、ある意味、Great!



リンク: Mansell vs Senna at Monte Carlo '92





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2007年9月29日土曜日

Gregory Maddux (27球の美学)


MLBの現役最高の投手といえば、文句なくマダックスだと思う。現在、41歳になるが、いまだ伝説を構築する過程にあるかのようだ。十分、彼は伝説なのに・・・。別名、精密機械、またの名を、Mad Dog(狂犬) 。現在は、San Diego Padresにて活躍中だが、1993年~2003年の10年間のAtlana Bravesでの活躍は偉大すぎる。その偉業は現在進行中。羅列してみると、
1)
1988年にCicago Cubsの投手として18勝8敗の成績を残した後、2004年まで17シーズン連続15勝以上を記録。2005年は13勝で、昨年は15勝を挙げている。何度もサイヤング賞を獲得しているが、サイヤングでさえも17年連続は未達成
2)
Braves時代の94年、95年と2連続で防御率1点台(1.56、1.63)の記録は、第二次世界大戦後、MLBの歴史の中で彼一人。ホームラン大量生産時代において、しかもマグワイア、ソーサ、ボンズらと同じナショナルリーグで投げ続けての記録である
3)
スピードは決して速くないが、打者の手元でポイントを数センチずらす。一般打者は点で捕らえるが、イチローは線で捕らえるらしいが、その点or線を数センチ、微妙に調整する能力を持つ。三振は取らないが、(それでも累計三振数は、3200を軽く超える)、内野ゴロ、内野フライに打ち取る。豪快な速球で三振を狙う他投手など気にする気配もなく、27球で試合を完結させる事を美学とする。
4)
昔、日本プロ野球では、"落合ゾーン"ってな言葉があった。あの落合が自信を持って見逃したのだから、審判がストライク!とコールしてしまうウッカリゾーン。マダックスの場合、そのハイレベルな制球力で際どいコースを突いているのだから、うっかり、ストライク!っと審判が言ってしまい、相手監督からの抗議が多い。そのゾーンをマダックスゾーンと呼ぶ。
5)
並みの投手は、塁上にランナーを背負うと、クイックモーションを取ったり、牽制などにて盗塁を抑制しようと必死になる。Madduxの場合、ランナーを背負おうが、一向に気にしない。だから、Madduxの試合は、相手チームは盗塁し放題。また、Mad Dogの名前の由来でもあるが、個人対戦よりも試合全体の勝敗に拘りを持つ。試合の流れの中で、勝負どころでは、敬遠を多投する。簡単に敬遠を選択するため、敬遠通算169個(06シーズン末時点)は、メジャー史上3位。彼曰く、「悪球打ちでヒットにされるよりも、さっさと歩かせて、次の打者で撃ち取ったほうが良い」とのことだ。それで、確実に、内野ゴロに仕留める。


でも、待って!生涯与敬遠169個を考慮して、彼の生涯与四球数944個を見たときに、994個/4,616イニング登板=0.215(1試合平均1.94個) この数字自体も凄いが、意図的な敬遠を除いた場合、(944個-169個)/4,616イニング=0.167(1試合平均1.51個)。21年間、投げて、1試合平均1.5個のフォアボールってのは、サイボークじゃない?

YouTubeに上記偉業を1分56秒で表現した映像を発見した。2007年8月4日、SFジャイアンツのボンズがハンクアーロンの大記録を目指して、754号目を狙ったパドレス戦。ボンズを完璧に抑えるマダックス。第一打席=見逃三振、第二打席=ファストゴロ、第三打席=ライトフライ。凝縮版は、第二打席。2アウト&ランナー3塁でボンズを向かえ、内外野はボンズシフトにポジションを変える。敬遠も考えられる場面で、マダックスは勝負を挑む。そこに、数センチを操作するマダックスの自信が見える。内野ゴロの欲しい場面で、はい、ファースト正面。彼の伝説は、本当に、まだ、途中なのかもしれない。




リンク:Greg Maddux manipulate Barry Bonds
Manipulate=(他)巧みに扱う 、操り人形のように操作する。



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2007年9月28日金曜日

伊藤智仁


日本のプロ野球投手で言えば、潮崎のシンカー、岡林のパーム、今中のスローボール、今で言えば、藤川球児のストレートが魔球と言えるだろうね。そう簡単に打てない。日本球界史を語れば、稲尾の鉄腕は・・・、江川のストレートは・・・、東尾のシュートは・・・って議論は尽きないのだが、僕達世代にとっては、当時の熱狂を体感できないだけに、その世界は歴史として知る範囲ってことになる。

僕の知る範囲で、伝説級の日本ピッチャーをあげるとすれば、ヤクルトスワローズの伊藤智仁になる。彼のスライダーは、全盛期には圧巻だった。細身の体だが、完投しても急速が落ちず、特にデビューは鮮烈なものがあった。彼の偉業を下記に箇条書きします。

※1993年のデビューして以来、7月に右ひじ故障するまでの短期間で、7勝2敗。防御率0.91。この0.91ってのが凄すぎる。7勝のうち、4勝が完封勝利。リーグタイ記録の16三振/1試合を巨人戦にて達成。実働3ヶ月のこの成績だけで、同期の松井秀樹ではなく、伊藤智仁が新人賞を獲得
※その後、3年間を故障&リハビリに費やすが、1997年には、154km/h(デビュー時は、Max147km/h)ストレートと高速スライダーで、クローザーとして復帰。7勝19セーブでカムバック賞獲得

※その後、再度の怪我により、生涯成績37勝27敗25セーブにてプロ生活に終止符を打つ。現役生活の半分以上を怪我とリハビリに費やしたこととなる

以上のように、伝家の宝刀スライダーは、肩への負担(脱臼しやすい)が高く、短命に終わったが、彼の全盛期は、伝説に値する。多くのプロ野球ファンが共感する真横に曲がるスライダーは絶品だった。今回、私が、伊藤智仁に伝説の賞賛を与える理由は、もうひとつある。彼の野球へのこだわりである。

【最後に投げた直球のスピードは?】
2002年、リハビリ復帰後、2軍戦にて登板。先頭打者を見逃三振にとるが、次の打者への初球に、再度の肩亜脱臼再発、投球不能となる。後日、ヤクルトは、引退勧告&ヤクルト本社勤務を薦める。伊藤は現役に拘り、年俸8,000万円→1,000万円の大幅ダウンを受け入れ、現役を続ける。一年後の2003年10月24日、2軍戦にて再登板。その試合が最後となり、数日後、彼は、自ら現役引退を表明する。ボロボロになったエースは見たくなかったが、彼の現役への拘り、その意地が、伝説に値する。これが、My Legendsにどうしても伊藤智仁を入れたい理由である。彼が最後に投げたストレートは、中学生でも投げられる108km/hであった。
古田曰く、「今までで受けた投手で最高の投手」と評する伊藤のスライダーは、YouTubeでどうぞ!水野解説、打者は巨人の井上。スローモーションで流れる伝家の宝刀は、涙ものです。当時、地球は、伊藤智仁を中心に回っていた。っと思います。




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2007年9月22日土曜日

川口能活


小柄であるが、ゴール前での果敢な飛び出しと俊敏な反応が武器。国際試合の大舞台に滅法強く、研ぎ澄まされた集中力でスーパーセーブを連発。富士市出身。
清水市商3年次(1993年)には、キャプテンとして全国選手権を制覇する。名門清商の大滝監督は、「能活なくして、今回の優勝はなかった。僕は何もしなかった。能活が、ここまで連れてきてくれた」っと言わしめた。チームを統率し、高校生離れしたセービング。地方大会含め無失点で全国決勝に進み、国見に一点を許すも、彼の伝説は、ここから始まる。同世代は、中田英寿、城彰二ら。
アトランタ五輪(1996年)では、ロナウド、リヴァウド、ロベルトカルロス、ジョルジーニョらを含む最強ブラジルに対し、スパーセーブを連発し、マイアミの奇跡に貢献。
ドイツW杯(2006年)の1次リーグ対クロアチア戦、負ければグループリーグ敗退が決定という試合中に与えてしまった絶体絶命のPKを鮮やかに止め、日本の決勝トーナメント進出に望みをつなげた。結果的に、ロナウド、ロベルトカルロス、ジョルジーニョら含むブラジルに、マイアミの復讐を食らい、予選リーズ敗退となるが、クロアチア戦でのPK阻止は、彼の土壇場での精神力の偉大さを物語る。
能活の伝説分岐点として、私は、次を挙げたい。アジアカップ2連覇のかかった2004年、ヨルダン戦のPK。全日本キャプテン宮本のナイス交渉を含め、すべてが能活の神降臨への流れを迎える。では、YouTubeより、これが神の手を持つ能活のスーパーセーブをご覧下さい。







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2007年9月19日水曜日

Reggie Miller


NBAプレイヤー、生涯一チームに貢献し、2005年39歳にて引退を発表。18年間の彼のプレーは、永久欠番31として伝説となった。

1990年前後、東部のChicago Bullsが、Michael Jordanを率いてブルズの歴史を作り始めた頃、西部では、Magic Johnson率いるLakersが80年代に5度制覇の偉業を終えていた。1995年にDennis Rodmanを獲得したBullsは、90年代に2度目の全盛期を築き上げる。その影で、Reggie Millerは、伝説を作り続けていた。

Reggie Millier=カリフォルニア出身、UCLAより1987年に、Inndiana Pacersに入団。Millerは、3Pointsシュートの名手であり、その精度は群を抜く。アウェーに強く、加えて、試合残り時間が短くなればなるほど、彼のシュートは精度を上げる。Pacersは、コマ不足から試合展開はいつもビハインドの展開。残り3分に逆転の奇跡が起こる。その時が止まったような錯覚を覚えるMoment(時間)をMiller Timeと呼ぶ。
Miller Time=敵のディフェンスは、Reggie Millerのプレーに魅了され、あたかも観客と化す。不思議とノーマークでボールを貰い、残り数秒のタイミングでシュートが弧を描く。最大は、残り31秒で、Reggie一人で11点を獲得する事もあった。彼の3pointsシュートがネットを揺らした瞬間がゲームセット。Miller Timeは誰も止められないし、止めたくないとさえ期待する。すべては、Millerのために注がれ、Millerだけがスポットライトを浴びる最高のEntertainment

日本で長嶋茂雄派 vs 王貞治派と2分されるように、USAでは、Michael Jordan派とReggie Miller派とに分かれるらしい。ReggieMillerが伝説となった瞬間は、1998年のEastern Conference決勝でのBulls戦。残り3秒で93-94にてPacersが負けているいつものパターン。ここでもMiller Timeを興すのだが、残り3秒でMillerはMichael Jordanのマークを振り切り、3points!!!彼の伝説が、形となった瞬間であった。では、Millerタイムの満喫を・・・




リンク: Miller Time produced by Reggie Miller




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2007年9月14日金曜日

荒川静香


これぞ東洋の女神!

2006年2月-トリノオリンピックのフィギアスケートにてアジア選手として史上初の金メダルを獲得。イタリアメディアは、「彼女こそ、東洋の女神!」と賞賛した。同感である。今回、私が、My Legendsに認定するにあたり、下記3点を挙げる。
1)伊藤みどりからの脱却
伊藤みどりのトリプルアクセルは神業。あれは、彼女にしかできないし、爆発的パワーを感じる。彼女は、毎回、規定演技でつまづき6位~10位くらいから、フリーの一発勝負にすべてを賭けるスタイルでTsunami Girlと言われた。当時、日本人はパワーはあるが、表現力が・・・・が決まり文句だった。92年、伊藤みどりの銀メダル(アルベールビル)から14年経過し、Venus of Orientの賞賛を捥ぎ取ったのが、荒川静香である。これぞ、Asian Beautyであり、あれだけの大舞台で、クールに美を決めた荒川静香を私たちは伝説として認定しても良いのではないか、と思う。

2)イナバウアーの意地
荒川のトリノは、決して、順風満帆ではなかった。2005年の新採点法式の導入により、イナバウアーは採点対象外となる。同時に、演技の方向性のズレから、ロシア人コーチとの師弟関係をトリノ直前で打ち切る。更には、時代は、浅田真央、安藤美姫へとシフトするかに思えた。あの大舞台で、採点対象でないイナバウアーを演じたことは、彼女の意地だと思う。これが、私のすべて!ってな表現力。その瞬間、観客のどよめきが、伝説に値する。

3)浅田真央では駄目だった
オリンピックへの参加年齢制限により対象から外れた浅田真央だが、世間は、「浅田なら金メダル確実!」と言っていた。浅田真央の演技力も抜群であるが、浅田の金メダルでは、東洋の女神にはなれなかった。なぜなら、荒川(当時24歳)の金メダルは、五輪女子フィギュア史上最年長の金メダル獲得であったからである。その視点も同様に、荒川静香の伝説を肯定する。


それでは、伝説のイナバウアーをYouTubeにてどうぞ。その瞬間は、3分28秒後。

リンク:Arakawa Shizuka 2006 Torino
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2007年9月11日火曜日

Roberto Carlos


1973年サンパウロ生まれ。通称:ロベカル。

2006年ドイツワールドカップを最後に、代表を引退した。この"代表引退を決意"するってのが潔いといいますか、一般ピーポーならば、ボロボロになってまでも、代表入り(代表復帰)を目指すが、これも彼のプロフェッショナルとしてのポリシーかな。格好良いね。

彼は、サッカーの歴史の中でも、最高のサイドバックだと思う。誰もが思うんじゃないかな?走れば100mを10.00秒ジャストって話もあるし、彼のロングスローは意味不明に長い(58m)。キックされたボールは、学術研究の結果、5歳児に直撃した場合、死に至るそうだ。現実に、日本代表の小島GKは、シュートを正面で受けて、それも両手で受けて、左手小指を骨折している。その威力を発揮する彼の体格は、若干168cm。すべてが意味不明。

ここでは、彼を伝説へと押し上げたロングシュートをYouTubeより紹介します。フィルムは、1997年6月のFrance vs Brasilの試合、フランス代表GKは、あのファビアン・バルテズ。一歩も動けず!では、伝説のロングキックをどうぞ!
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2007年9月9日日曜日

Britney Spears


1981年、アメリカ・ルイジアナ州に生まれる。8歳から子役を始め、16歳の時、歌手としメジャーデビューを果たす。2004年、酔った勢いでラスベガスにて幼なじみと結婚するも、すぐに婚姻無効の申請をする。同年、妊娠中の彼女を捨てたバックダンサーと結婚。2児を授かるが、現在、未婚の母。
2007年、精神不安定が原因なのか、激太り、丸坊主、ノーパン宣言によりメディアを騒がす。周囲の説得により、リハビリ更正施設にて自分自身と奮闘。
彼女が、伝説となった瞬間は、下記の2つのフィルムが分岐点と考える。既に、当時のブリトニーは売れっ子だったが、このフィルムを頂点に彼女の伝説は始まった。
リンク:Michael Jackson & Britney Spears
全盛期に、彼女は、マイケルジャクソンと歌手として共演を果たす。曲は、1987年リリースの"Bad"に収録されているマイケルの"the way you make me feel"ってな意味深なタイトル。この時、彼女のセクシー度は頂点であり、マイケルとのステージ共演により、ブリトニーの伝説は始まった。
リンク:Madonna & Britney Spears
マイケルとの共演の後、彼女は、マドンナとも共演を果たす。曲は、Madonnaの"like a virgin".最後のキスシーンは、物議をかましたが、プロフェッショナルの証であり、彼女の伝説が確実であることをも証明している。

Britneyが伝説と化した2つの映像であるが、さすが、エンターテイメントの国=アメリカ合衆国ってのを感じる。日本のアーティストでは、ここまで、できないだろう。本人の努力と、それを取り巻く環境がBritney伝説へと導いた瞬間